どうしても「教育」という観点は避けられなくなる。
つまり、ナントカという技術を駆使して展示物の情報がよりインパクトをもって伝えられるとか、楽しみながら学べる、、とか。
education、というのは、すでにミュージアムの定義にも入っている言葉だし、これを存在意義の第一義にもってくるミュージアムもある状態なので、
その流れを無視するわけにはいかないだろう。
でも、私は「教育」という視点が、実は苦手なのである。
なんで、ミュージアムで教育なんだろう、って。
ことに、美術館に関してはそう思ってしまう。(それですら、古い観念に縛られているだけなのはアタマではわかっているのだが)
しかしそれは、「教育」という言葉を、私の方がすごく狭くとりすぎているからなのだろうな、とも思っている。
「知的な場である」と言われれば、それはそうだ、と思うし、もっとそうなってほしいなとも思うから。
※今、思った。私の中では「教育」的要素を追いかければ追いかけるほど、「知的」から遠ざかるような気すらしているのかもしれない。
それってよく考えると変なの!
美術の鑑賞は純粋に自分の心と対峙すべし、という近代美学的?な考えから離れられてないんだろう

修士論文の段階で、そこまでいけるかどうかはわからないけれど、
なんというか、私は、デジタル・メディア=ミュージアムの存在意義のひとつでもある教育的見地として重要、というところから、
もう一歩超えたことを言いたいのだと思う。
もっと、根本的な体験としての必要性というか。。
ミュージアムの概念の問題というか。。。むにゃむにゃ
と、朝から闇雲に書いてみたのは、
下記文章を読んで、メモしとこうと思ったから。
今日参加するシンポジウムで「拡張するミュージアム」というお題がひとつあるゆえ、「美術館の概念は無限の拡張可能ではない?」という記事。こちらは2002年なので古い記事ですけどね。
ツイッターに書こうかと思ったが、長い引用になるのでできなかった。
いまだに個人的にはツイッターつかいこなせてない。笑
ま、このくらいラフにブログも使えばいいのか。
というわけで、忘れないようにメモしておきます。
■「美術館が将来の必要性を検証し始めるとすぐに、単に新しいスペースではなく、従来のものとは根本的に異なる空間が必要となることを認識し始める。つまり言い方を変えると、MoMAは、これまでしてきたように、単に拡張するだけでは、その膨張に耐えきれないということである。もし、MoMAが今後の難問に立ち向かいたいと思うなら、知的でプログラム的な目的を実現可能とするような空間と空間的関係を与えられる新しい美術館を創造する必要がある。」
■エルンスト・ファン・アルフェンは、これを「知的美術館」と呼ぶことを提案している。比較、会話、交渉、価値付け、判断、そして不和の場所。マサオ・ミヨシの意見に沿って、簡潔に言うと、教育のための「自由な」場所である。しかし、ファン・アルフェンが、美術館は知識のための場所ではなく、経験を生み出す場所となっていると言うのは正しい。
■(略)・・・知識を生み出すことは、その最もな重要な仕事ではないようだし、最重要の関心事ではないようである。それゆえ、美術館の中心に知を置くこと到底無理なようである。しかし、それは私たちが美術館において知的な仕事をどのように考えるかによる。(中略)
思考の劇場としての理論化は、必ずしも美術作品の同時代的、歴史的参照を単に考えることに向かうことではない。(中略)
本当の挑戦には、新しい種類の想像力を生み出し、移行の意義やその時期の異なる面を強調することが含まれている。それは、決して美術作品それ自体にあるのではなく、それがもたらす効果や、観者を自由にする包容力として認識されるものである。(中略)
より正確に言うと、彼等は、美術作品の自立性よりも、多くの自立性を見る人に認めているのである。
クリス・デルコン「美術館の概念は無限に拡張可能ではない?」、アール issue 01/2002 p.16〜21












